山内龍雄芸術館


須藤が語る《山内龍雄》

山内龍雄の思い出を、須藤が不定期に語ります。

山内と須藤

《山内(右)と須藤(左)》
30年、画家と画商の二人三脚をしてきた山内と須藤。
ここでは、須藤一實が山内龍雄との思い出や、言葉、エピソードなどを不定期に語ります。

・「ギャラリー・タイム誕生の瞬間」
1989年のこと。
私は、当時勤めていた画廊を辞め山内だけの画商として独立したい旨を、山内に相談した。 彼はおおいに喜んでくれた。
さて、会社の名前をどうするか。銀座の喫茶店で歓談した。
なかなか決まらない。
喫茶店のBGMでバッハの平均律が流れていて、それを聴きながら山内は 「《タイム》だね」と言った。
「平均律は時間。時間は永遠に続くものだし、誰でも覚えやすい名前だよ」
この瞬間、《ギャラリー・タイム》が誕生した。

2019/2/28

・「禅の美」
山内は「禅の美」の七つの要素をいつも意識していた。
「不均斉」「簡素」「枯高」「自然」「幽玄」「脱俗」「静寂」
いつもこの七つを意識して制作していた山内の作品は、日本の美を体現した芸術であると私は思っている。

2019/2/22

・「饒舌な山内2」
山内からよく電話がかかってきた。
夕方にかかってきて、すぐ私の方からかけ直す。それから話は延々と続き、電話が終わるのは夜中。
内容はずっと画の話。東京と北海道なので電話料金が高く、いつも翌月の請求書を見るのがこわかった。 それでも、山内の画の話は切ることができず、いつも話を聞き続けた。
今は海外の友人とインターネットの通信で無料で通話ができ、それもテレビ電話ができるのだから、 時代が変わったと思う。便利になった今、話す山内がいない。

2019/2/21

・「饒舌な山内」
山内は普段、北海道の原野に住み、人と会わない生活を送っていた。
東京に出てくることはめったに無かったが、年に一度の山内展の時には展示会場へ来ることもあった。
そんな時の山内は、とてもお喋りだった。普段の生活の反動だったんだと思う。話す内容は全て画の話。
展示会場で話し続ける山内を来場者は画商と思い、黙り込んでいる私を画家と思う人は多かった。
お喋りな山内を見て「作品のイメージと違う」とよく言われた。

2019/2/20

・「ゴーギャンと100年違い」
まだ山内と出会う前、私(須藤)はゴーギャンの伝記を読み、その人生に感動していた。
ゴーギャンと私がちょうど100歳違いということから、親近感をおぼえていた。
株の仲買人をしていたゴーギャンは1882年の株の暴落で画業を本業にしたいと考えるようになったとあり、 私は1982年に勤めていた製造業が倒産して転職し、画廊勤めを始めた。
ゴーギャンとゴッホが共同生活をしたのは1888年。そして、私が自分の企画として山内の展覧会を初めて開催したのは1988年。
ゴーギャンは私にとって特別な画家だ。

2019/2/19

・「100年経った色」
山内は、画材屋で売っているチューブ入りの絵具の色が好きではなかった。
理想は、100年経ったような、くすんだ色。
その色を出すためにいつも試行錯誤していた。

2019/2/4

・「サムホールで十分」
ピカソの代表作で大作の「ゲルニカ」(3.49x7.77m)を前にした時のこと。
山内はこう言った。「確かにすごいと思うけれどもね、だけどこの画のかもし出すエネルギーに関して言えば、 俺のサムホール(絵の寸法で22.7×15.8cm)で十分出せるよ。」
これには私もたまげた。

2019/1/29

・「キャンバスを削るきっかけ」
山内は浮世絵の赤富士の色が好きだった。
その色は、なかなか油絵具では出せなくて、それに近づけたく、試行錯誤した結果、キャンバスを削ることになった。
山内の作品の特徴である「削り」は、色を出したいからはじまった方法です。


2019/1/24

・「山内の好きな日本の画家たち」
山内が油絵を描き始めた最初の頃は、西洋画を勉強し、西洋の美術に傾倒していた。
次第に関心は日本人の描いた絵にも広がっていった。
山内がよく名前を挙げていたのは、雪舟、宗達、写楽、恩地孝四郎、熊谷守一など。

2018/12/22

・「絵描きになるきっかけ」
山内は20歳ころ、郵便局に勤めていた。
その頃は身体の中に黒い固まりというか、モヤモヤしたものがあって、日常がおもしろくなかった。 趣味で絵をはじめた。他のこともいろいろやってみたが長続きせず、絵だけが残り、どんどんのめり込んでいった。
黒い固まりのモヤモヤを解きほぐしてくれるのが絵だった。絵を描くことは自己治療そのものだった。

2018/12/20

・「ブラームスの悲劇的序曲」
今日は山内の命日。五年前に亡くなった山内のことを思い出す。
山内はとにかくクラシックが好きだった。 夜中に電話をかけてくることがしばしばあったけれど、 ブラームスの悲劇的序曲を聴いていたら涙が止まらなくなっちゃったんだ、と話していたことを思い出して、 昨日から私はずっとブラームスを聴いている。

2018/12/10

・「写生はしない」
山内は対象を見ながら画を描くことがなかった。
風光明媚なヨーロッパを一か月以上旅した時でさえ一切写生をしない。 それは「自分の足元を描く」という山内の信念からくるものだった。
画家を志したころから、画は山内にとって常に自分自身の心の問題をどう処理していくかというものであった。

2018/10/22

・「ゴヤに見えていたもの」
1991年山内とスペインのプラド美術館を訪れた時、ゴヤの作品を多く観た。 その中に「砂に埋もれる犬」という絵があった。砂に埋もれた犬の顔が画面下方にあり 画面のほとんどの部分は空のような何もない空間が描かれている。 山内はこの絵を長時間観て「スーさん、ゴヤはね、犬を描きたかった訳じゃないのよ。 ゴヤの時代はまだ抽象という概念が無かったから、犬の顔を描き入れているけれど、 ゴヤがこの絵で見せたかったのは、空のような背景の空間なんだ。ゴヤは俺と同じものが見えていたんだなあ」 と感慨深げに話していた。

2018/10/18

・「ジャコメッティに見えていたもの」
ジャコメッティは見えたものを見えるがままに描こうとした芸術家で、 そのこだわりのために作品を完成させられなかったことで知られている。 仕事の進行がすこぶる遅かったそうだ。
なぜそうなのか、山内はこう語っていた。 「画家とモデルの間にマンダラが見えてしまって、そのマンダラが変幻自在に動く。 だから対象がぼやけてしまうんだ。スーさん、俺はジャコメッティと同じものが見えているんだよ。」

2018/10/16

・「虚空間構造絵画」
山内は埴谷雄高(1909-1997)の未完の大作「死靈」を愛読していた。
その小説の中に度々出てくる「虚体」というイメージに興味を持っていた。 山内の絵画に浮かんでくる虚像(実像ではない)の空間。
私は山内芸術を「虚空間構造絵画」と呼んでいる。

2018/10/14

・「密度が大切」
山内は画面の密度を重要視した。例えば1平方メートルの画があったとして、 その画から1平方センチの部分を切り取ってみても、 その部分が絵画として成立していなければならないという認識を持っていた。 制作の最終段階ではルーペを使ってそれを確認していた。

2018/10/11

・「人間は宇宙」
人間はその体内に宇宙を内包しているとも言われている。
宇宙の秘密を解き明かすためにダビンチは人間そのものを探求したが、 山内もまた人間(自分自身)と宇宙の存在の不思議さを探る一生を送った気がする。

2018/10/9

・「鳥瞰と宇宙瞰」
作家の司馬遼太郎が歴史上の人間を飛ぶ鳥の高さから見て小説にしていたとしたら、
山内は大気圏外の宇宙から地球の、日本の、上尾幌の、一人の画家を見続け、 その画家(山内自身)の存在理由を解き明かすことに一生を捧げた人間だったと思う。

2018/10/7

・「三日間眠らない」
山内の言っていたこと。
「スーさん、俺はね三日間(72時間)眠らないと調子よく画が描けるんだよ。 自動的に手が勝手に絵具の色を取りに行ってね、俺はただ何者かに操られる人形のように、 絵筆を動かしているだけなんだよ。夢中でやっていて、ふと我に返ると凄い画が出来ちゃってるってわけなのよ。」

2018/10/2

・「山内は歌が上手」
山内は歌が上手だった。リズム感もよかった。
私が山内のいる釧路を訪れた時にはカラオケがある飲屋へ行ってよく歌った。
私は演歌が好きで若い頃から自分の歌唱力に自信があったが、山内はもっと上手だった。
山内の十八番は水原弘の「黒い花びら」とフランク永井の「おまえに」。プロ並みのうまさで感心した。

2018/9/30

・「21世紀の仕事」
今から25年くらい前、20世紀の終わりの頃のこと。
ピカソのキュビズムの話が出て、山内はこう言っていた。
「あの時代はキュビズムが最先端の仕事だったかもしれないが、今ではもう古い。 キューブではなく、細胞よりもっと小さい原子の核を描かないと、21世紀の最新の仕事にならないよ。」

2018/9/28

・「山内の笑い方」
実際のモーツァルトには会ったこと無いから分からないのだけれど。 映画「アマデウス」(1984年に製作されたモーツァルトの生涯を描いた映画)に出てくるトム・ハルス演じる モーツァルトの笑い方が、山内とまったく同じなので驚いた。
甲高い調子でケラ・ケラ・ケラと明るく子供のように笑う。 私も、そんな笑い声を聴くと、とても愉快になったものだった。
2018/9/27

・「自分は画家ではない」
山内の言っていたこと。

「俺って、自分を画家だと思ったことは一度も無いんだよなあ。 なんだろうね、自分の身体の中にある得体のしれない何かもやもやしたものが一体何なのか。 それで、一年中キャンヴァスを削っているんだろうね。」

2018/9/26

・「精神的友」
山内の作品に「精神的友へ」とうい題名の画がある。
その精神的友とは、彫刻家のアルベルト・ジャコメッティのことです。
「スーさん、俺はね、ジャコメッティと同じものが見えているんだよ。 三次元では既にジャコメッティがやってしまっているから、 二次元の平面で、俺はジャコメッティと同質の芸術を創りあげるんだ!」
1990年頃の話です。
2018/9/24

・「夜の画家」
山内は画の制作はほとんど夜に行っていた。
昼間に仕事をする時には、二カ所ある窓に板を貼り、部屋を暗くした。
自然光で描くより、電燈の光の下で描くことを好んだ。 時間によって色が変わる自然光ではなく、一定の光の中で画と向き合っていた。
私はそんな山内に「ヤマさん、あんたは夜の画家だね」と言ったものだった。
2018/9/23

・「入るまで五年」
山内は自分のアトリエ(自宅の屋根裏部屋)に人を入れない人でした。
外出する時にはアトリエの扉に鍵をかけ、同居していた母親さえも中に入れることがありませんでした。

私が何度も自宅を訪ねても(東京から北海道の厚岸町まで出向いても)、なかなかアトリエまでは入れてもらえず、やっと入れてもらえた時は 出会って五年の歳月が経っていました。その時は、「ああやっと山内が信用してくれたんだな」と思いました。
2018/9/22

・「西行く」
2006年に画廊を移転した時のこと。
新しい住所は「東京都中央区銀座2-4-19」。そのことを山内に手紙で報告すると、返事にこう書かれていた。
「スーさん、住所が2419だよ。『西行く』だよ。」 西とはヨーロッパのこと。山内が日々制作していた油彩画の本場はヨーロッパ。
山内はいつも、自分の油彩画はヨーロッパの人が観たらどう思うだろうと考えていました。
自分の作品でヨーロッパで勝負したいと思っていた山内。
その夢は翌年の2007年叶うことになります。
2018/9/21

・「不思議なこと」
山内と出逢った1987年頃の話。
アパート住まいの私に山内から夜、電話があり、
「スーさん、今日アトリエの天井からベニヤが落ちてきたんだよ。 怪我はしなかったけどね。そのベニヤ板に大きく数字で118という番号が書いてあったんだ。
スーさんのアパートの部屋番号は118号だったよね。」
確かに、私の住んでいたアパートの部屋番号は118号だったので、なにか不思議な縁を感じたものでした。
山内との二人三脚が始まる一年前のことです。
2018/9/20